
明治期の産業発展で、大量の貨物を輸送・保管する需要が高まり、全国の大都市で倉庫業が発達しました。高崎出身の横浜商人として名を馳せた茂木家の尽力を得て、明治29年12月23日に高崎市田町の絹市場で高崎倉庫株式会社の創立総会が開催されました。翌明治30年1月に農商務大臣の免許を得て、同年3月に設立登記を行いました。
初代社長は、高崎商業会議所会頭を務める高崎産業界の重鎮、絹商の中島伊平が就任。高崎駅近くの土地を購入し、井上保三郎の請負でレンガ造の倉庫や繭取引所、事務所棟を建設し明治30年7月1日に営業を開始しました。
1906(明治39)年に少壮気鋭の金融家として活躍していた山田昌吉が29歳で専務取締役に就任。大正時代に見舞われた戦後恐慌を山田昌吉の経営手腕で乗り切り、1917(大正6)年に山田昌吉が社長に就任した。山田昌吉は1921(大正10)年に高崎商業会議所会頭、上信電気鉄道株式会社社長に就任するなど、地域経済の発展に尽力しました。
大正2年に飯塚倉庫合資会社を吸収合併し高崎倉庫飯塚支店としました。この時代は国の指定を受けた米穀保管や生繭乾燥、乾繭保管が業務の柱でした。
第二次世界大戦中は、食料や物資の厳しい統制のなかで、陸軍糧秣本廠(りょうまつほんしょう)の乾燥蔬菜工場として、乾燥野菜の生産、梱包を行いました。出征した兵士の家族や関係者が働き、各方面に評価を受け、終戦まで続きました。
集荷された野菜を水洗いし、大きな釜で湯通し、80度の熱風で乾燥させたということです。
1944(昭和19)年5月に山田昌吉社長が死去、翌月に山田勝次郎社長が後任として就任した。山田勝次郎社長は日本倉庫業協会群馬県支部長に任命された。山田勝次郎社長は社内空気の刷新と社業運営方針の改革に取り組み、「国家的社会的責任の完遂」など社是三則を定めました。
山田(旧姓・蝋山)勝次郎は東京帝国大学農学部卒、山田昌吉の息女・とくと結婚し山田に改姓しました。京都帝国大学農学部の助教授などを務め、経済学者としても大きな成果を残しています。
戦後は内陸部の倉庫業として事業の革新に取り組みました。高崎市の都市計画により、1956(昭和31)年に旭町の本社倉庫を鉄筋造に新築、創立60周年記念事業を実施しました。昭和39年に高関営業所を開設し顧客ニーズに対応しました。
昭和47年に下佐野町に本社ビルが完成し、移転。旭町の旧本社跡地に高崎駅前ビルを建設し、昭和52年に高崎髙島屋が開店しました。
昭和57年に山田勝次郎社長が死去、山田とく社長が就任しました。
平成5年に高崎渋川線の拡幅に伴い、飯塚支店の倉庫、事務所が解体となり、跡地には平成8年に北高崎駅前ビルが完成、大型商業施設として開店しました。
1974(昭和49)年に山田勝次郎・とく夫妻は子どもたちに読書に親しんでもらおうと学校図書の助成を目的に財団法人 山田文庫を設立した。1990(平成2)年5月にとくが死去し、とくの財産のほとんどが山田文庫に遺贈され、私設図書館として活動しています。
山田文庫の敷地には高崎市九蔵町にあった旧茂木銀行から山田昌吉が移設したと言われる煉瓦塀、山田昌吉の父(とくの祖父)山田永五郎が長野県から移築し、山田昌吉が同気茶話会の会合を開いたといわれる江戸末期の茶室などが残り、高崎市都市景観賞を受賞しています。